長寿庵300年の歴史
◆まず始めに◆
「長寿庵」はチェーン店やフランチャイズなどではなく、暖簾分け(奉公人や家人に同じ屋号の店を出す事を許可する事)の形態をとり、屋号は登録商標として管理されています。しかし、同じ「長寿庵」という暖簾を掲げながら、それぞれが独立し、規模も、商売のやり方、営業形態、味やメニューも統一せず営業しています。
なので、「長寿庵厚木店」とか「長寿庵鶴見店」ではなく「厚木(あつぎ)長寿庵」、「鶴見長寿庵」というように地名を冠して区別する事が多いです。
「長寿庵」には「それぞれの地域にあった形、地域密着の蕎麦屋を目指す」というコンセプトがあるため、そのような形態を取っています。
とはいえ、誰もが「長寿庵」の暖簾を掲げられるわけではなく、どの会派とも「長寿庵」で修業しそこの店主から認められなければ、暖簾分けは許されません。製麺や出汁の引き方、食材の見極めなど店を維持してゆくための基本技術をひと通り習得し、なおかつ土地柄にあった味を出すためのいわば応用技術をも習得する必要があります。それにより、そこの土地にあった味が作られ地域に根差した店舗が開けます。
◆長寿庵の誕生◆
元禄15年(1702年)、三河国宝飯群(ほいぐん)柏原村(現在の愛知県蒲郡市)から上京してきた「惣七」という百姓が、江戸の京橋五郎兵衛町(現在の東京駅八重洲口付近)で蕎麦屋「三河屋」を創業しました。
(ちなみにあつぎ長寿庵の初代も愛知県出身で、横浜の鶴見で修業しました)
「惣七」の孫か曾孫の代に、宝飯群の老人が「193年生きた」として、幕府から長寿を讃えられたことにあやかって「三河屋」が「長寿庵」と称するようになりました。
これが「長寿庵」の始まりです。
余談ですが、「庵」という屋号は18世紀中頃、浅草の「道光庵」というお寺にそば打ちの名人の住職がいて、そのそばを食べに、遠くからも客が押しかけていました。「道光庵」は、繁盛し過ぎたために本院からそば作りを禁じられてしまいますが、江戸ではその名声にあやかって、屋号に「庵」をつけるそば店が続出した事が起こりとされています。
そして、享保2年(1717年)に一度焼失しますがすぐに立ち直り、以前にもまして繁盛します。
その後「三河屋惣七」は代々引き継がれ、5代目から「惣七」改め「宗七」と名乗り、明治に入ると6代目「宗七」は「倉橋」姓を名乗ります。
明治5年(1872年)の大火で焼け出されますが数ヶ月後にはレンガ造りの洋館の蕎麦屋「長寿庵」が竹川町(現銀座7丁目)に開業します。
(その後昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失、廃業に追い込まれ総本店を「栗田長寿庵」に託しました)
◆長寿庵4つの会派とのれん会◆
さて、その後の「長寿庵」は大きく4つの会派に分かれて現在に至る事になります。
明治10年(1877年)6代目「倉橋宗七」から「栗田作次郎」が初めて「長寿庵」の屋号を暖簾分けして浅草橋場町(現在の台東区橋場)に開業し、後に采女(うねめ)町(現在の中央区銀座)に移転します。これが「采女会」の始まりで、現在は品川区旗の台「総本家長寿庵」が継承しています。
そして、宗家から明治32年(1899年)に独立した麻布四之橋「村奈嘉与吉」を開祖とする「四之橋会」、采女会の総本家から明治30年(1897年)に独立した「吉田寅次郎」を開祖とする「十日会」、明治42年(1909年)にやはり采女会の総本家から独立した「五十嵐友五郎」が開祖の「実成会」の4会派です。
さらに細かくいうと、「十日会」は昭和2年(1927年)に吉田家から暖簾分けした「渡辺藤蔵」の「赤坂長寿庵」を中心とする「三日会」と、昭和10年(1935年)に木挽町で開業した「天野正吉」の「正長睦会」の二つの会派に分かれています。
(ちなみに「あつぎ長寿庵」は「名店を多く輩出した」と評判の高い「四之橋会」に属しております)
「長寿庵」の暖簾を掲げる全ての店が加盟する「長寿庵のれん会」は、昭和25年(1950年)に「長睦会」から「長寿会」と改名し、平成14年に法人組織化し「長寿庵協同組合」となり先にも述べましたが「長寿庵」の屋号は現在登録商標となっています。
◆長寿庵創始者、倉橋宗七家を中心とした年表◆
元禄15年(1702年)三河(現愛知県蒲郡)から惣七が江戸に上京
元禄17年(1704年)江戸の京橋五郎兵衛町(現東京駅八重洲口付近)に後の「長寿庵」を開業
享保2年(1717年)焼失 復興
年代不詳 5代目「惣七」が「宗七」に改名
明治3年(1870年)倉橋姓を名乗る「平民苗字許可令」
明治5年(1872年)焼失により銀座竹川町(現銀座7丁目)に移転
明治10年(1877年)6代目宗七の宗家より、采女町に栗田作次郎が初めて暖簾分け(采女会)
明治30年(1897年)采女町長寿庵より吉田寅次郎が暖簾分け(十日会)
明治32年(1899年)6代目宗七の宗家より、麻布四之橋に村奈嘉与吉が暖簾分け(四之橋会)
明治33年(1900年)6代目宗七死去(49歳)
明治42年(1909年)采女町長寿庵より五十嵐友五郎が暖簾分け(実成会)
大正元年(1912年)7代目宗七死去(36歳)
年代不詳 8・9代目娘婿により継承
昭和20年(1945年)東京大空襲により焼失、廃業。総本店の座を倉橋氏から栗田氏に託される
私共は、この伝統のある「長寿庵」の名に恥じぬよう、また誇りを持って、
これからも「長寿庵」の屋号を引き継いでいく所存でございます。
※長寿庵「四之橋会」系統図 あつぎ長寿庵は一番右下